「呼吸力」で投げられた場合、何が何だか分からず自然と笑いが出て来ます。
「筋力」で投げられると、怒りや、悔しさや、恥ずかしさや、様々な感情が頭を駆け巡ります。
しかし呼吸力だと、笑いが自然に出てくるものです。
「ちょっと待って? 今何が起こった?」 って。
「呼吸力」なる言葉は合気道に於いては欠かす事は出来ません。では「呼吸力とは何か」と云われて合気道家であれば、正しい説明が出来なければ「呼吸力」なる言葉は使用すべきではありません。
(故永井師HPより)
改めて「呼吸力」とは何か?
「呼吸力」とは、身体を通しての心の表現であり、心と身体が一致して、初めて呼吸力の体現が可能となります。
ゆえに、純粋なる心を持って合気道を行えば「呼吸力」は身に付くでしょう。
実際、こんな事を言われても絶対に意味が分かりませんよね。
当然です。呼吸力は言葉では説明できません。
だから、実際に体験するしかないのです。
合気道を志す人は、この「呼吸力」という不思議な力を身につけるために日々稽古に励んでいます。
もし、呼吸力が一体何であるか分からないまま稽古するのであれば、苦痛でしょう。
本末転倒ですが、「呼吸力で投げた技」の状態を表現するのに、「上手に投げる方法」ではなく、「上手に投げられる方法」を稽古する人も出てきたりします。
(理論上は完全に ”なし” とも言えない稽古法ですが)
呼吸力なくして、相手に合気道の技を掛けても、まず相手は倒れません。
頑張って倒れないようにしている人を倒すのですから、普通の力で倒れるはずがないです。
人は、自分が想像すらできない物を作り出すことはできないと思います。
ですから、呼吸力は「呼吸力のある人から感覚を受け取る方法」でしか身につける方法はないと思います。
合気道重富道場はそれが可能になる道場です。
とにかく、相手を動かしたければ、筋力は使わないことです。
「筋力」対「筋力」であれば、より力が強い方が勝つのが当たり前でしょう。
だったら、筋力を使わないで勝負すればいいのですが、そこで普通の人は「??」ってなります。
ここから先は「これが筋力」「これが呼吸力」と、手渡しで感覚を掴んでもらうしかありません。
あとは感覚(呼吸力を引き出す意識操作)の話になります。
筋肉で勝負はしていませんから、通常筋肉の強い人(若い人、男の人、体の大きな人…)の出番はありません。
むしろ、相手の筋力をキャンセルして動きますので、普段から筋力に頼っている人ほど不利になります。
相手の筋力をキャンセルした上で、自分だけ動きますので、技が掛かるのは当然です。
加えて、筋力は相手に到達しない時には自分に跳ね返る特性もありますので、相手からすると「自分の筋力が自分に跳ね返ってくる」という自滅のような状況にもなってしまいます。
(物理的に「作用反作用の法則」とか言いますよね)
そんな ” うまい話があるのか? ” と思うでしょうが、こんな話になってしまうのが呼吸力です。
結局、人間は"体の構造は同じ"ですので、師匠のやってる事を弟子ができないはずはありません。
しかし、それには感覚を分かっている人からの「技術の手渡し」が必要です。
手渡しと言っても難しいことではありません。呼吸力は、師匠をはじめ先輩から技を受け続けるだけでも感染(うつ)るんです。
水が高い所から低い所に流れ込むように。
道場に通う理由はここに尽きると思います。
合気道重富道場の稽古は、当然ですが合気道を習います。
合気道には様々な技がありますが、そのどれもが呼吸力がなければ相手に効きません。
その形を真似しただけで相手に技が掛かるというものではないです。
呼吸力を込めて動かなければ、それは舞踊と変わりません。
(きちんとした舞踊には魂が込もっていると思いますが)
本や動画を見て、同じように動いても相手を投げることはできません。
(大谷翔平選手のフォームを真似しても160km/hは出ませんよね)
そもそもが、見えている技は「ただの現象」であり、「結果」でしかありません。
例えば、同じ技の動きを
早くやれば 打撃
ゆっくりやれば 投げ
じっくりやれば 絞め・極め
掴んでやれば 関節技
武器を持てば 武器技
と、いう風に一つの技が ''いくつにも変化'' するものです。
一例をあげると、合気道の技の一つである「四方投げ」は打撃技であり、投技であり、絞技であり、関節技であり、武器術でもあるのです。
しかも、その上で技に呼吸力を込めるのです。
合気道の技は、いざという時に使えなければ意味がありません。
いざという時に使えるようになるためには、形ばかりの技ではなく、呼吸力が必要です。
合気道重富道場は「呼吸力」こそが重要と考えます。
通常、剣道をする人は柔道はしませんし、柔道をする人も剣道はしません。
別の性質のものであるという認識が強いと思います。
合気道の元になったのは柔術ですが、柔術は元々総合武術の中の一つです。
(諸説あるかもしれませんが)
体術と武器術は「動きの質」が同じであるべきだと考えます。
また、武道を稽古する際に、その効果を確認する時、一般的には試合をすると思います。
昔は、勝てるのか、勝てないのかを、初見でどう判断したのでしょうか?
古来、武術家は戦う前から相手の実力をある程度測れたはずです。
合気道に試合がないのは、わざわざ試合をしなくても優劣が分かるからです。
実際に、呼吸力の高い人から手首を押さえられると動けませんし、呼吸力が相手よりも高ければ自在に動けます。
勝ち負けがはっきりしているのに、試し合う道理はありません。
また、体術ができているか武器術をすれば分かりますし、逆も同じです。例えば剣術で相手を斬れているのか、杖術で相手を突けているのかは体術で確認できます。
武器術をすることで、合気道を深く理解できますし、その効果も絶大です。
合気道と武器術は、表裏一体であるべきです。
当然、武器術にも呼吸力を込めます。
呼吸力を込めることで、武器の威力も増します。
合気道重富道場では、実際に使える武器術を稽古します。
稽古が進むと分かりますが、呼吸力は「守り」の時に威力が高まります。
手を出さない状態が一番強い事が分かります。
呼吸力を知覚できると、攻撃の際にどうしても「隙」が発生する事が分かるようになります。
イメージとしてですが、呼吸力をボールに例えたとして
ボールを取り合う攻防で、相手に向かってボールを持ったまま腕を伸ばして、ボールを持った手を体から離すほど相手にボールを取られやすくなると思います。
ボールが一番取られにくいのは、腕を縮めて体の近くでボールを抱えた時であると例えると、イメージしやすいかもしれません。
先に手を出した方が不利なのですから、分かっている者同士では、お互いに相手が手を出すのを待つ状態になります。
負けないためにはお互いが「手を出さない」選択肢となり、結果として戦いは、いつまで経っても始まりません。
これも合気道に試合がない(試合にならない)理由の一つです。
もし、''呼吸力なしの攻防''になると、体力が優先され、先手の方が有利になり、騙し(フェイク)などの駆け引きが始まります。
この結果がどうなるかは想像できるでしょう。
話は元に戻りますが、呼吸力の攻防は争いを生みません。
合気道重富道場が目指すのはそういう合気道です。