剣術とは、相手を刀で斬る技術ということですが、よく聞かれるのが、この現代で相手を殺傷する為の剣術を学ぶ必要があるかという質問です。
ストレートに必要性を聞かれれば、答えは「ありません」です。
でも、必要性で言うならば、その道のプロ以外はゴルフもテニスもTVゲームも必要性なしです。
なぜ学ぶかと言えば、本来の目的とは別のところに楽しみがあるからでしょう。
はじめる動機は、「アニメや映画を見て憧れた」 でもいいです。
「日本刀に興味があるから」 でもいいです。
もちろん、「護身術として」 でも良いのではないでしょうか。
少しでも, 興味があるなら体験してみて下さい。
やってみて、学校で習ったスポーツの運動理論とは全く違う事に驚くと思います。
スピード・パワー・スタミナは関係ありませんし、インナーマッスル理論、体幹トレーニング等とも違います。
結局, 剣術は「科学・力学」 ではありません。
「術」という漢字を使うくらいですから、技術なんです。
相手に斬らせ、でも自分は斬られず、相手だけを斬る。
刃物での斬り合いですから、相手を斬っても自分も斬られたら人生終わりです。
相討ちでは意味がないのです。
そこには、しっかりとした勝てる理論があって、実現可能(再現可能)でないと意味がありません。
剣術は、そうした「命のやりとりから生き残るため」に生まれた技術なのです。
「術」というモノを他に例えると…
剣術のような「術」を他の芸事で説明すると、手品があります。(奇術とも呼ばれますが…)
しっかりとしたタネがあって、人間が騙される理論法則があって、視覚や心理を利用して、仕掛けがバレなければ相手は術にかかります。
術は、仕掛けがバレなければ、何度でもかかりますし、術を使って更なる術をかける事もできます。
しかも、練習を積めばほとんどの人ができるようになるのが技術です。
洗練された手品は、まるで魔法や超能力の ように感じます。
「術」 とはそういうイメージ です。 剣の「術」なのです。
ここまで読んでも、相手を斬る方法とか、やっぱり学びとして何の意味があるのか?という疑問は消えないと思います。
武道であれば、「精神力」を磨き「礼儀作法」を身につけるという意味で、学びとして有効であるのは想像できると思います。
現代で剣術をする意味はたくさんある と私は思いますが、まず一つ挙げるなら 「発想の転換」だと思います。
例えば、人生で壁にぶつかった時に どうしますか?
「乗り越える」 「あきらめる」 「別の道を行く」は考えつくと思います。
でも、それだけでしょうか?他に手段はないのでしょうか?
あるはずです。
それが、「普通に考えると思いつかないような方法」だったり、「考えれば実は当たり前の事」だったりすると、なかなか思いつきません。
そういった柔軟な思考や広い視野は、剣術のような「発想が常識とは違うトレーニング」をすることで養われるのではないかと思います。
あまり知られていませんが、坂本龍馬も勝海舟も剣術の達人だったと言われており、激動の幕末を生きた他の偉人たちも、剣術を習った人は多いということです。
ちなみに、この文章のタイトルである「剣術のススメ」 は、有名な「学問のすゝめ」 をもじったものですが、学問のススメで有名な福沢諭吉も居合の達人だったと言われています。
文武両道の福沢諭吉が、なぜ剣術ではなく学問をススメたのかは、きっとあの時代に足りないものが学問であったからだと思います。
もし、この現代であれば「剣術のすゝめ」を書いたかもしれません。 (これは完全な私見)
また、他にも挙げるなら「意識の改革」でしょうか。
剣術では一見「不可能に見える事」を求められます。
例えば、''型'' では相手が2動作する間に3動作を求められます。
当然ですが、最初は全く出来ません。
しかし、これが稽古を積むと出来るようになるのです。
本物の ''型'' は、そういう風にプログラムされているのです。
そうした成功体験は、剣術以外でも日常に生かされ、「困難な壁を乗り越える意識」を形成するため、意識の改革に非常に有効であるといえます。
令和になりIT化も進み、これからは激動の時代・変化の時代と言われます。
この時代に必要な力について、学校教育では「非認知能力」と言われる
見える学力
知識・技能
見えにくい学力
思考力・判断力・表現力
見えない学力
学びに向かう力・人間力
が必要だと言われます。
何だか剣術で養われそうな気がしませんか?
追記
剣術で養われるモノってなんだと思う?
そう道場生に聞いてみたところ、
「胆力」ではないでしょうか。と答えが返って来ました。
確かに、剣術は相手の打ち込みに避けずに真っ向から入ります。
相手に斬らせないと、術にかかってもらえません。
(でも、実際は相手からは斬られずに相手だけを斬ります)
ヘタに避けようとすると、かえって斬られてしまいます。
そういう稽古は、物事に動じず、何事にも正面からぶつかる気持ちにつながるかも。
「自信」ではないでしょうか。という意見も。
物理的に強くなりますので、いざという時に自分の身は自分で守れる。だから気持ちも強くなりますし、自分自身が心の支えになれるという事はあると思います。
でも、一番多い意見が
「とにかく楽しいので、そんな事は考えた事ないですね」
というものです。
剣術もですが、合気道もしますので、普通に考えたら絶対にできない動作ができる。実際にそれができる人がいる。
力を使わないで威力を出す。
''体'' を使うために ''体'' を使わない。
回らないで回る
前に出ないで前に出る。
こんな常識では思いつかないような動作の数々が、誰でも少しずつでも出来るようになります。
出来るようになると、ちゃんと技がかかるので、できた自分が確認できます。
それで終わりではなくて、同じやり方でもっと洗練された動作もあるし、全然違うやり方で結果が同じ動作もあります。
「終わりがない楽しみ」とでも表現したらいいのでしょうか?
そうして、''いつの間にか強くなれる'' としたら、剣術の稽古はこの上ない幸せな時間ではないかと思います。
剣術の稽古は、「怖い」「きつい」というイメージがあると思います。
他の道場のことは分かりませんが、当道場では普通の中学生の女の子が習っているくらいですから、「痛い」とか「きつい」とか「怖い」とは無縁な道場であると自負しています。
元々、当道場が「遊・楽・笑」というコンセプトで稽古していることから、雰囲気は推察できると思います。
男女・年齢・体格・武道経験を問わないという表現は、決して誇張ではありません。
体力や筋力を使わずに相手を制する動きは、体感すると笑みが出てきますし、むしろ中学生の彼女は、
「剣術の稽古は楽しい」
と言ってくれます。
また、副次的な効果として「集中力」がついたとも言っていました。
自分の身体の内部感覚と相手との剣線、稽古中はものすごい情報量を頭が処理しますので、高難易度の3D感覚のパズルを解いている感覚だと思います。しかも楽しく。
集中力がつくのは当然かもしれません。
初心者だけでなく、剣道や居合、空手や柔道をされている方でも、剣術の稽古は参考になると思います。
稽古の中で、木刀や杖による素振りとか、型の稽古をしますが
きちんと刀を握れているか
きちんと鞘から刀を抜けているのか
振り上げられるか
振り下ろせるか
そもそもきちんと立てているのか
歩けているのか
の確認ができます。
武器を持たない武道でも、立ててるか、歩けるかを始め
突けているのか
投げれているのか
が確認できると思います。
「卵を握るようにってヤツでしょ。」
「いつも力を入れないで握ってるよ。」
おそらく、結局そういう「弱い力で」握ってしまってます。
剣は握らないんです。
「歩く?」 普通に歩けるでしょ。
でも、武道的な歩き方となると案外難しいものです
これらの意味が分かる方であれば、当道場は必要ないのかもしれません。
日本古来の武術には、相手と対戦したり巻藁を斬ったりしなくても、「本当にできているか」の確認をする方法がちゃんと用意されています。
稽古で斬り合いをするわけにはいきませんから。
武道とは共通する点も多いと思いますので、剣術を体験してみてはどうでしょうか?
合気道をされていた方で、相手が頑張ると技が掛けられないとお悩みではなかったでしょうか?
植芝盛平翁が合気道の理合は剣の理合であると説明しているとおり、合気道の理合は剣術から来ていることは間違いありません。
剣術の理合とは、人を投げるための技術ではなく、人を斬るための理合でなければ意味がありません。
これは言葉では説明は難しく、体験して頂くしかありません。
相手を斬れるということは、相手を投げられるということであり、合気道の技で相手を投げられないということは、相手を斬れていないという事だと思います。
実際、合気道の技はそのまま剣術として使えるはずですし、剣術にならない動きの技であれば、それは合気道であるのか考えるべきです。
また、相手を斬れるという事は、相手を斬らない事もできる。
つまり、相手を意図的に怪我させられるという事は、相手を怪我させない事もできるということです。
(加減ができる = 活殺自在であるべきという考え)
剣術を学ぶ事で、あなたが今まで覚えた技の精度が劇的に変わります。
あなたは、一ヶ条(一教)や四方投げの際に、何回相手を斬っていますか?
(念のため、、当道場は剣以外に杖もきちんと稽古します)
居合道の型で、なぜ座るのか?
腰に帯刀したままで、相手と対座するシチュエーションで、敵の殺気を感じたところからの抜き付けという想定ですが、本当にそれだけでしょうか?
そもそも、礼儀作法として、帯刀したままで正面に対座するという事が昔の時代にあったかは別として、その姿勢から何の稽古をしていたのかを考えた時、考えられる事の一つは「足を殺す」(動きを制限する)ということであると思います。
剣術において、足を踏ん張ることは「居付き」と呼んでNGな動きですが、膝を抜いて動く「浮き身」のできない者に、いきなり立ったまま抜き付けを教えると、足を踏ん張って剣に体重を乗せようとして妙な癖がつくことは目に見えています。
ですから、まず膝から下を殺して足を踏ん張れない状態を強制的に作るために初心者を座らせたと考えると合点がいきます。
体の動きを制限して、非日常的な動きを引き出すのが、「型」の役割の一つであると考えます。
剣術をすることで、剣を扱うための「入り身」や「浮き身」等の身体操作が身につきますので、居合をされている方が、同時並行で剣術理論を習う事は、技の向上と自分が習っている流派の型の理解につながると思います。
例えば "後の先" を「相手の挙動に反射神経で反応して、相手を上回る速い動きで相手の動作を追い越す事」とするなら、才能のある若者やアスリートしかできません。
剣術的には相手に先に抜かせて斬らせて、かつ、相手の剣よりも先にこちらの剣を到達させる技術。
しかも、運動神経や筋力・体力に頼らなくても間に合う技術です。
そんな嘘みたいなことができるのか?
「力学ではない」からできるのです。
だから、剣術は一生をかけてする価値があるのです。
技術だから、歳を取っても衰える事はなく、むしろ伝統職人のように洗練する事ができるのです。
剣術ほど、居合と相性の良い武術はないと思います。
なぜなら、昔の武士も剣術の延長で居合をしていたはずだからです。
居合と剣術は両輪たりえるのです。
柔道は、今や世界的なスポーツとして競技人口も多く、部活動や学校の授業でも経験した方も多いかと思います。
柔道のことを「柔(やわら)」と言って表現する場合があります。
柔道の修練の中で「柔よく剛を制する」とよく言われますが、決して「柔」が「剛」よりも優れているという訳ではありません。
この言葉に対して「剛よく柔を断つ」という言葉もあります。
それぞれ「制する」「断つ」と表現が違うという事は、勝つ手順が違うという意味だと思いますし、本来はどちらにも偏らず、両方を磨くべきだと考えます。
この「柔」や「剛」について、どう解釈しているでしょうか?
「柔」を技と解釈し、「剛」をパワーと解釈している方も多いかと思います。
その解釈が正しいかは申しませんが、剣術の技法でも「柔」と「剛」があります。
とりわけ、当道場では剣術系の体術を「柔」と表現しますが、剛と柔は分けるものではなく、剛を内包した柔であるべきだと考えます。
「技は力の中(内)にありと」いう言葉も言われますが、まさしくこの事であると思います。
一応、当道場の「剛」はパワーではなく、「柔」は技のことではありません。
(ですが、剛の技法にパワーを感じるかもしれませんし、柔の技法に技を感じるかもしれません。)
ところで、柔道の「型」をなぜしなければならないのか、そもそも「浮落」なんて技が可能なのか?
(当道場で類似の技は体験はできますが)
柔道をやっていて、無意味に感じたり疑問に思った人の方が多いと思います。
(昇段試験前に手順を覚えるくらいですよね)
柔道を創設した"嘉納治五郎師"は、柔道を普及させるために大変な苦労をされて今に繋がる体系を組み立てたのだと思いますが、師の遺した言葉に「柔を極めたければ古流をやれ」という言葉があります。
古流といっても、数千の流派がある訳ですが、古流武術は理合が同じであれば、体術も武器術も同じ身体操作ですので、同師が言う「柔(やわら)」を理解するには"古流"つまり武器術(主に剣術)を学ぶ必要があるのではないでしょうか。
剣術を学ぶことで、柔道の「型」の重要性に気づき、柔道本来の可能性を再発見する事ができると思います。
''柔よく剛を制す''はずなのに、筋トレを重視していませんか?
体の大きな人や体重の重い人が有利だと思っていませんか?
歳を取ったら、体力のある若者にはかなわないと思っていませんか?
そうではないはずです。本当の武道であれば。
その他、柔道に行き詰まった方、辞めた方も剣術という違う視点から、新たな可能性を発見できることは間違いありません。
弓道は、かつて弓術と呼ばれていました。
戦場で最も活躍する兵器は、火器が大量に登場する前は圧倒的に「弓」であったそうです。(戦術にもよるとは思いますが)
現代では、「弓」はかつて武器であった名残があるだけで、人に対して使用する事はありませんし、弓を稽古する人の中には「弓は的に向かって矢を射る道具である」と思っている方がほとんどだと思います。(自分も弓道部時代はそう思っていました)
では、「弓道とアーチェリーの違い」はどこにあるのか?
と聞かれた時、日本人としては「精神的な修養である」と答えると、外国人からは「アーチェリーもメンタルが大事である」と返ってきます。
「所作の訓練です」と答えると。「茶道ではダメですか?」と逆に聞かれ、「弓道は中りを評価しません」と答えると、「それでは何のために練習するのですか?」と返ってきます。
中学・高校の時、自分はなぜ的に矢を射るのに「袴」を着用しなければならないか疑問でした。
インターネットや書籍でどの資料を見ても、和洋の弓の構造の違いや採点方法の違いについて書いてあり、武道的に納得いく答えは出てきません。
(外国の方が書いた「弓と禅」が一番武道的であると思いますが)
そもそも、「なぜ的を狙ってはいけないのか」は、武術をすれば理解できます。
剣術では、相手(的)を意識しては相手を斬れません。
相手を斬ろうと思った時点で、相手には避けられて(対処されて)しまいます。
合気道の開祖は、射撃専門の軍人さん6人からの一斉射撃の弾をよけたという逸話があります。(塩田剛三著『合気道修業』189Pより)
武術では、「狙う」気を相手に向けると、よけられてしまうというのは定説で、それは剣術や体術等で容易に確認できます。
いかに相手(敵)を意識しないかは、剣術の修業で苦労するところですが、その体験は「なぜ的を狙ってはいけないか」につながります。
先に話した著書では後日談として、開祖が鉄砲の名人の猟師と対戦しようとした時に「まて、あんたの鉄砲は当たる」と勝負の前から負けを認め、「あんたは、わしを撃ってやろうという気持ちが少しもない。最初から当たるつもりで撃とうとしている人の鉄砲はよけられない」と名人同士の対戦のくだりがあります。
この話では
アーチェリー的(スポーツ的)
な考えの射撃専門の軍人
弓道的(武道的)
な考えの鉄砲の名人の、それぞれ射撃に対する考えが対照的です。
アーチェリーと弓道の考え方の違いは、戦いの道具として "射撃の命中率" を上げる方法に
「道具に精度を求めるのか」
「精神に練度を求めるのか」
で分かれます。
これこそ、弓道がスポーツではなく武道である証拠です。
だから、弓道では的を狙ってはいけないのです。
昔の武士は、弓だけを修業していたはずがないと思います。
剣術をすることで、弓道の理解が深まることは間違いありません。
詳しくは、合気道重富道場ホームページへ
合気道重富道場は鹿児島県の中心地である姶良市にあります。
霧島市や鹿児島市からも稽古に来られています。
場所は鹿児島市(中心部)から国道10号線を通って車で約20分、
JR日豊本線鹿児島駅より重富駅まで 約15分、重富駅から徒歩では5分です。
スーパーセンターニシムタ姶良店の裏側に位置します。
道場は地区唯一の合気道や古武術(古武道)の専門道場です。
駐車場もありますので、車でお越しの方も大丈夫です。